59回続いた脇道シリーズも今回で完結。
1998~1999年 34~35歳の頃。
1998年の開幕戦で「参戦5年目にして初めて」の3位表彰台だったワタクシ。
しかし、喜びもつかの間だった。
なんとずっとお世話になっていたショップ「P」が突然倒産してしまったのだ。
このショップは「なんとかバックス」とか「なんとかハット」のようにチェーン展開をしていた訳ではなく、姉妹店も無かった。
クルマの全てをみてもらっていたショップがなくなり、青ハチの前の所有者である頼みの「Kさん」もいきなり無職になってしまった。
当時ワタクシが出ていたレース形式の走行会は『無茶をする荒くれもの』がエントリーしないように「ショップ単位でのエントリー」に限っていた。
個人で「参加します!」と言っても受け付けてくれない事になっていたのだ。
さぁどうしたものか…。
困っているとRSCCの主催者さんから連絡を受けた。
「Pが潰れたんやって?!ビックリやなぁ。Kちゃんは何とか他の店ででも続けてもらいたいなぁ…あの腕はもったいないで。そうそう、村中くん第二戦もエントリーしてくれるやろ?特別に『ウチのショップから』って形でするから申し込み用紙を自宅に送るわな」
嬉しい話である。
ワタクシの知る限り、過去に主催ショップからの直接エントリーは聞いた事がなかった。
こうして主催者さんの「特別措置」で『たった一人で』1998年全戦エントリーし(メンテナンスするショップが無いので成績はふるわなかったが)、その翌年「Kさん」が個人で始めたチューニングガレージからの1999年シーズンフルエントリーした。
この年は成績もそこそこ良く、ほぼ毎回入賞で3位をもう一度獲った。
ただ、この少し前ぐらいから「火曜日バンド」とは別のバンドが動きだしていた。
ワタクシの職場は基本「日祝休み」だがこの頃は日曜出勤も多く、数少ない休みで「レース・メンテナンス・バンド活動」の全部を回すのが困難になっていった。
青ハチは所有したままでレースエントリーを見送る事が多くなり、そのうち青ハチ(のエンジン)をどうしても欲しいという人が現れ、クルマごと譲った。
脇道から本筋に戻ったのだ。
「レーシングドライバー引退」である。
脇道シリーズおしまい☆