1983年20歳の頃。
「アキヒサwithフライング」や「ラフレシア」を同時進行で頑張っていた頃、別のバンドからオファーを頂く。
例の野外ライブで共演した「ボンスリー」である。
このバンドは「ライブがしたい!」というよりは「オリジナル曲を増やして、いずれはレコーディングしたい」って感じだった。
ワタクシは加入してから知った事だが、彼らは野外ライブの前からワタクシを知っていたようで。
それは野外ライブの数ヶ月前、プランタンなんば(今のビッグカメラ難波の場所にあった)のホールで行われた、とあるイベント。
そのイベントで「仕事」としてPAオペレーターをする事になっていた小川くん(THE FATESのギターだったり魔法瓶のオペレーターだったり)からの依頼で「ドラムチューナー」としてワタクシが呼ばれた。
イベントのリハーサルが始まる前に、セットされたドラムのチューニングをするワタクシ。
アマチュアバンドのイベントでは、あまり目にしない光景ではある。
それを会場で見ていたのが、そのイベントに出演するボンスリーであった(どうやらその時は決して好意的な目では見ていなかったようだが^_^;)
そして先の野外ライブで対バンとして共演。
なぜかここでは一気に「好意的」な感触だったようで(笑)
しばらくしてドラマーが抜けた事からワタクシに話が来た。
記憶している限りでは、ワタクシが在籍している間にボンスリーとしてライブに出た事はなかったと思う。
オリジナル曲をアレンジしたり、デモテープのレコーディングをしたり。
そしてベーシストが抜けてしばらくして
「今度新しいベーシストとスタジオで顔合わせです。なんでもノヴェラのヨシローさんの弟子で凄い人らしいですよ!」と。
当日、スタジオに来たベーシストは…
茨木の音源宝庫「TAKU」だった(笑)←いや笑うトコちゃうねんけど(^_^;)
ボンスリーのメンバーと知り合う5万年ぐらい前からの友人と、そんな形で会うとは!
結局TAKUは加入せず、ワタクシもその後すぐに脱退。
理由は「掛け持ちはやめてボンスリーひとつに絞って欲しい」と言われたから。
実はこの頃、もう一つ別のバンドに入っていたのだが、そこを辞める事は小指を1本失う事になるようなバンドだったから(笑)
その頃のワタクシは、ボンスリーよりも自分の小指が大事な、まだ子供であった(←もうハタチやろ!^_^;)
そのバンドこそ「パニック」である。
続く☆